わたしは、どんぶりの上にのっている桜エビの目ん玉が怖い。
無数の小さい命がどんぶりの上に一斉に並べられ、その無数×2の目ん玉がこちらを見ているような気がして、気になって気になって仕方がない。
正直、美味しく食事をいただくどころではないのだ。
こうなった原因は、たぶん小学生の頃にある。
小学2年生ぐらいのとき、生活科の授業かなんかでザリガニを飼うことになった。
きっと小学生の頃に小さな生き物や植物を育てた経験のある人は多いのではないかと思う。
わたしはたしか、二匹のザリガニを家で飼うことになった。
そしてしばらくしてから、たくさんザリガニの子どもが生まれた。
小さな命たちが水槽の中で一生懸命泳いでいた。
だけど、ある日家に帰ったら
ザリガニたちがみんな死んでいた。
なにがいけなかったのかはわからない。
でも一匹残らず死んでしまっていた。
水の上にプカプカと浮かぶ小さな命たちが、茫然と水槽をながめているわたしのことを一斉に睨んでいるようだった。
目をそらしたいのに、逸らせない。わたしと小さな命たちは、ひたすら見つめ合っていた。
わたしはその光景がいまでも脳裏に焼き付いている。
消えた命は、わたしのお母さんが最後を見送った。
わたしはもう彼らと目を合わせられなかった。なにもできなかった。
そこから、桜エビがたくさんのったちらし寿司やパスタが食べれなくなった。
いや、正確に言えばなんとか食べれるのだけど、料理を直視できないのだ。
無数の桜エビと目を合わせたまま、それを口に運び咀嚼し飲み込むことができない。
桜エビの無数の目ん玉が一斉にわたしを睨んでいるように思えて仕方がない。
無数の小さな命が、(たとえすでに命がなくとも)自分たちにこれから待ち受けている運命を目で訴えかけているような気がしてしまう。
これは桜エビに限らず、しらすやホタルイカもそうだった。
目ん玉のあるものが怖い。
目ん玉があるものはまだ生きているような気がして。
その目の中に命があるような気がして。
その目ん玉を噛み砕くことが怖い。
この小さな命たちがわたしのテーブルに運ばれてくるたびに、わたしはあらゆる命をいただいて生かされていることを何度も知る。
わたしはまだその命たちと向き合うことが怖い。
でもいつかは、ちゃんと無数の命と目を合わせて「ありがとう、いただきます」と手を合わせることができたらいいな、と思う。
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