「あなたの親って、どんな人生を送ってきたの?」
もしそう聞かれたとしたら、すぐに答えられる人はあまり多くないかもしれない。
もちろんわたしもその一人だ。
20年同じ家で暮らしてきて、それなりに会話もしているはず。
だけど、親がどんな思いで今まで生きてきたのかを、全く知らない。
近くにいる人、大切な人のことほど何も見えてなかったりするよなぁと思って、今回は帰省のタイミングでいろいろと母の人生について話を聞いてみた。
すると、初めて聞くような話ばかりが飛び出してきた。
その様子を、インタビュー形式で書き残しておこうと思う。
幼少期はゲンコツと、家から締め出される日々
あんちゃ:オカンってそもそもどこで生まれたの?
母:生まれは、北海道の紋別だよ。父さん(あんちゃ祖父:以下じいちゃん)が銀行員で転勤ばかりだったから、生まれて9ヶ月で新宿に引っ越したり、千葉に引っ越したり転々としてたね。
あんちゃ:じいちゃんばあちゃんは厳しかった?
母:めちゃくちゃ厳しかった。世間体をすごく気にする人たちだったから、何かちょっと間違えようものなら平手で叩かれたり、骨が出っ張った部分でゲンコツされたり、ベランダに締め出されたりして、いつも泣きながら謝ってたよ。
あんちゃ:そんな厳しかったんか…
母:高校生のときですら門限17時半だったからね(笑)ロクにデートもできないよwだから、自分が子どもを生んだときは、絶対こんな育て方したくないって思った。
あんちゃ:じいちゃんばあちゃん、わたしにはすごく優しかったからそんなイメージないなぁ
母:じいちゃんは戦時中からずっと貧乏だったみたいで、優秀だったけど大学に行けなかったみたいで。高卒で銀行に入って、そこから支店長まで登りつめたような人だから、ずっと体裁を気にしたり学歴コンプレックスがあったんじゃないかな。だからわたしの成績や進路にもすごい口出しされたし。
わたしは母から厳しくされた記憶がほとんどなくて、何をするにも「自分で考えて決めなさい」と言われていた。
それは決して甘やかされたり放任されてるわけではなく、わたしが親から自立して決断する力を身につけるためのものだった。
そうした子育てのルーツは、母の幼少期の頃にあったのかもしれないなと、話を聞いていて感じたのだった。
自分の母親は、本当の母親じゃなかった
あんちゃ:じゃあ子どもの頃はずっと厳しく育てられたんだね
母:そうだね~あまり良い記憶はないかもね。特に小3のときにばあちゃんから”実は本当の母親じゃない”って突然告げられたときはかなりショックだった。
あんちゃ:わたしですらそれ聞いた時『ドラマかよ』って思ったもん。
母:もともとばあちゃんが子どもが産めない体だったみたいでね。じいちゃんのお兄さん夫婦から、養女としてわたしがもらわれたんだって。
あんちゃ:それ聞いた時どう思った?
母:今でも覚えてるけど、聞いた瞬間は笑ったね。本当はすごくショックで泣きたかったんだけど、泣いたらばあちゃんが悲しむだろうなって思って泣けなかった。だから、笑うしかなかった。
あんちゃ:子どもって親の心情めちゃくちゃ察するもんなぁ…
『それでも、わたしにとっての両親はじいちゃんばあちゃんだけどね』と話す母を見て、なんとなく昔の記憶を辿った。
祖母がガンになって入院するまでの間、実家で一緒に過ごしていた母とわたしたちは、あまり良い雰囲気の生活ではなかった。
あるとき食卓で、母と祖母が喧嘩して、祖母が泣いていたシーンを今でもすごく鮮明に覚えている。
母はそのときうんざりしたような顔で、キッチンに去っていった。
(きっとどちらも悪くないし、どちらも悪いのだろう)
それでも祖母が死んだとき、お葬式で棺に入った祖母のそばで、祖父と母がさめざめと泣いていたのを見て、
「ああ、それでも愛していたんだな」
とぼんやり思った。
(わたしは祖母がこの世からいなくなったことに実感があまりなく、ただ隣でぼーっと立っていた気がする)
実家を飛び出してパティシエの道へ
あんちゃ:高校卒業後の進路は?
母:元々おかし作りが好きだったから、製菓の専門学校に行きたかったんだけど反対されて。「短大くらい出なさい」って言われたからしぶしぶ短大に進学した。そこから家を出て一人暮らししたんだけど、やっと実家から出れる~!って超喜んだわw
あんちゃ:やっぱ反対されたんだw
母:両親に相談して、肯定されたことは一度もなかったね。だから逆に独立心が強くなって、その後の進路は「全部自分で決めてやる」と思って、何もかも事後報告にしてた(笑)
あんちゃ:ワイが会社辞めたときもオカンに事後報告だったけど、これは遺伝だったんだなぁ。(笑)
母:短大出たあとに専門学校行きたかったから、在学中はバイトばっかりしてたね~。でも専門に行くだけのお金は貯まらなくて、卒業後そのまま就職しよう!と思って、当時そこそこ大きかった洋菓子店に就いたんだ。
あんちゃ:知識も経験もない状態で採用されたんだねw
母:完全にダメもとで面接行ったんだけど、熱意が伝わったのかな?(笑) それからはもう修行の毎日だったね~。当時はパティシエ業界も男社会だったし、かなり肉体労働だったから、同期で入った子たちはみんな1~2年以内に辞めてったね。
あんちゃ:オカンはどれくらい働いたの?
母:6~7年くらいはやったかな。給料も15万くらいで超安かったけど負けず嫌いだったから、誰よりも朝早く出勤して、誰よりも遅くまで残ってやってた。
あんちゃ:辞めた理由は?
母:仕事を続ける中で、パティシエのコンテストで入賞したり、ある程度実績はついたんだけど、パティシエの世界って「どれだけ精巧に作るか」「美しい出来栄えか」ばかりが注目されてて、肝心の味とか美味しさの視点を見失ってるように思えてきちゃって。お菓子は食べるものなのに、そこを追求できないことに違和感を抱いて、もういいかなって辞めたんだよね。
パティシエからのバイク屋、そして怒涛の結婚・出産…
あんちゃ:そのあとは転職とかしたの?
母:バイク乗るのも好きだったから、バイク屋に就職して、そこで出会ったパパと結婚して、あんちゃが生まれたんだよ。(笑)
あんちゃ:そういう出会いだったのか!初めて聞いたw
母:ちなみに結婚するのも両親に反対されると思って事後報告だったわ(笑)
あんちゃ:つよい……
母:出産に際してバイク屋は辞めて、あんちゃが3歳くらいになったときに医療事務の仕事をするようになったね。
あんちゃ:いろんな仕事してたんだな~。んでそのあとにあんちゃ(妹)が生まれたわけだ。
母:うん。で、数年後に離婚して、一旦実家に戻った。
あんちゃ:だいぶ大事な部分はしょったw
ちなみに離婚後、当時小2のわたしと4歳の妹は母と一緒に実家で暮らすことに。
祖母がガンになった頃と重なったので、母は祖母の介護を続けながらまだ幼い妹とわたしを女手一つで育てた。
その後祖母が亡くなってからも、祖父と母が揉めたりすることが度々あり、母がいつも自室でひっそり泣いているのを、わたしも陰でひっそり見ていた。
母は絶対にわたしたちに弱いところを見せなかった。
(たぶんそういうところは、良くも悪くもわたしと妹はしっかり血を受け継いでいる)
子どもに心配をかけまいとしていたのかわからないけど、でも子どもは敏感なもので、母が何やら苦労しているのは察していた。
その後母は再婚して、わたしが小5くらいの頃に義父と一念発起してケーキ屋を開業することになる。
妻として、母親として、パティシエとしての苦労
あんちゃ:そういえば、なんでケーキ屋始めようってなったの?
母:ん~別にやりたくて始めたわけじゃないんだよね。
あんちゃ:そうなんだw
母:オトン(義父)はもともと建設会社の専務だったんだけど、そこの社長と事業のことで揉めてて。経営も傾いてたから退職しようかどうかって時期だったのね。で、「退職して開業しようかな」って言ってたの。
あんちゃ:うんうん
母:で、いいんじゃない~って感じで答えてたら、「二人でケーキ屋やろう!」って言われて。
あんちゃ:うん!?
母:びっくりしたけど、勢いで「やるかぁ!」ってなってスタートした。
あんちゃ:なんか……こういうとこしっかりわたしも受け継いでるよなぁ……。娘二人いる中でよく決断できたよねw
母:あんまり大丈夫な状態じゃなかったけどねw
あんちゃ:当時「お金とか大丈夫なの?」ってわたし(小5)が聞いたら「アンタたちは気にしなくていい」ってはぐらかされたのめっちゃ覚えてるわ(笑)
母:そこからは本当に怒涛の日々だったね……
あんちゃ:オープン当初とか二人とも全く家に帰ってこなかったもんなぁ……それでも少しずつテレビ出たり雑誌出たりするようになったよね。
母:少しずつ注目されてきてたのはありがたかったんだけど、毎日ほぼ休みなしで早朝から夜遅くまで肉体労働だから、かなりキツかったね。
あんちゃ:わたしも妹も受験控えてたり、じいちゃんも体調悪くなってたし家のことも大変だったよね。
母:そうだね。店も忙しくなってきたし、思春期の娘たちも難しい時期だし(笑)、じいちゃんもガンになって面倒見るのもあって、わたしが倒れそうだった(笑) でもここで倒れたら店も家も回らないから絶対倒れちゃダメだ!って。泣く暇もないくらいだったね。
ケーキ屋自体は10年ほど続き、店を拡大したり人を雇ったりと盛況な時期もあったのだけど、その反面両親がどんどん疲弊していく様子を家で見ていた。
母は毎日の肉体労働で首ヘルニアになり、膝の半月板を損傷して地べたに座れなくなった。
わたしも妹も進学でお金のかかる時期だし、なんとしても生活を回さなきゃいけないという気持ちもあったのだろう。
分厚いプレッシャーの中で、その上で母親としての役割もまっとうしてやっていたのは本当に親とは偉大なものだ。(お弁当だって作ってくれていた)
当時のわたしといえば、中2のときに初めて彼氏ができたり高校は毎日部活漬けだったり思春期真っ只中だったので、両親の心配なんか一ミリもせず自分のことばかりだった。
今思えば、家の心配なんかしないほど自分のことに集中できたのは、両親がこれだけ精一杯働いてくれたおかげなのだ。
ケーキ屋を閉めて、田舎へ移住
あんちゃ:ケーキ屋は結局10年くらいやったのかな?
母:そうだね。本来お菓子を作るのは大好きだったのに、利益のことを考えたり、効率化するたびにどんどん苦しくなっちゃって。「もう作りたくない」って思って、じいちゃんが亡くなってあんちゃも就職で上京する時期だったし、もう店閉めて田舎に引っ越そう!って洞爺湖に移住した。
あんちゃ:当時料理するのも嫌そうだったもんね。
母:燃え尽きちゃったというか、何も作りたくなかったね。だけどそれでも、友人が来た時やイベントを開いたときに料理を振る舞うのはやっぱり好きだなって思った。料理をつくるのが嫌なんじゃなくて、「誰のために作るのか」が見えなくなることが嫌だったのかも。
あんちゃ:あーそれわかるなぁ。わたしもブログが嫌になったとき、数字ばかり追いかけて「誰に届けるのか」を見失ってたもんな。
母:そうそう。何をするにもそうだけど、自分が作った料理を食べる人のことを思いながら、心をこめて作ると、作り手も、受け手も幸せだよね。
あんちゃはどんな子どもだった?
あんちゃ:そういえば、わたしって昔はどんな子供だった?
母:いやー、とにかくよく寝る子だったね。しかも寝起きが死ぬほど機嫌悪いからめっちゃ泣きわめくし。大変だったわ
あんちゃ:あ、ちなそれ今もですわ。さすがに泣きわめくことはなくなったけど。
母:あとは、一つのものにハマったらそればっかりやってたね。トイストーリー1を何十回も観たり、同じ漫画を何度も読み返したり…
あんちゃ:小6のときにWebサイト作ってたときも、ご飯も食べず一日中パソコンにへばりついてたよねw
母:あんときは病的だったね。廃人になるんじゃないかと思ったもん。
(※あまりに病的だったため、その後母にパソコンを没収された)
あんちゃ:完全に現実から逃避してたから、PC没収された時は発狂したけど、現実に引き戻してくれて助かったわ(笑)
あんちゃ:ちなみに、わたしが会社辞めてブログで食ってく!って言ったときどう思った?
母:ふ~んいいんじゃない?って。
あんちゃ:かっるww
母:自分の人生だからね。もちろん苦しくなったときには、いつでも戻ってこれる場所は作っておこうと思ったけど、何かに挑戦するのに反対することはないよ。
あんちゃ:ありがたいことですわ……
今まで母がどんな葛藤や苦悩があったのか、なんとなく察していたつもりではいたけど、改めて話を聞くと、わたしが見えていた「母親像」はほんの一面でしかなかったことに気づいた。
子供の頃は、親は強くて、頼りがいがあって、いつでも助けてくれて、最強の生き物だと思っていたのだけど、
自分が親の年齢に近づいていくにつれて、「親だって弱くて、苦しくて、誰かに助けを求めたいときだって当たり前にあるよな」と思うようになっていった。
そう思うと、親とは、親である以前に、自分と同じひとりの人間なんだと気づくことができた。
当たり前のことだけど、当たり前すぎて逆に認識できていなかったのかもしれない。
だからこそ、親と子という関係を超えて、一人の対等な人間としてこうして話が聞けるようになったのは嬉しく思う。
次はわたしが、母や、父や、まだ見ぬ新しい家族のために、居場所をつくる番だ。