わたしがシロフクコーヒーでの修行を始めた頃、ドリップした経験も一切無いわたしがまず、こが店長から最初に教わったことがありました。
それは、「とにかく“みろ“」「“みて“覚えろ」ということ。
「みる」・・・漢字を思い浮かべるだけでもたくさん思いつきます。
見る
観る
診る
視る
看る
それぞれの「みる」の意味合いは微妙に異なります。
じゃあ、何をどのようにみればいいのか?
わたしは悩みました。
店長のこがさんは、それ以上の説明はすることなく、静かにドリップコーヒーを淹れ始めました。
(ちなみに、以前ブログで紹介したこがさんと同一人物。お茶屋もやりながらコーヒー屋も一緒にやってます。素直にスゴイ)
とりあえず、言われた通りに「みよう!」と思って、店長が淹れている姿をひたすらガン見しました。笑
コーヒーを淹れているときの店長は、まるで我が子を愛でるような、ものすごくやさしい眼差しで、ゆっくりコーヒーが滴るのを楽しんでいるようでした。
一通り淹れ終わったあと、わたしの方を見て言いました。
「じゃあ、同じように淹れてみて。」
人生で初めてのドリップコーヒー。
今のいままでガン見していたのだから、きっと店長と同じようにできるはず・・・!
と思い、さっそく豆を用意して、器具をセットして、いざスタート!
・・・するやいなや、
「アレェ!?!最初、どんなふうに淹れてたっけェ!?!」
と奇声を発するあんちゃ。
それを横で無言でみている、こが店長。
「ウオッ!?お湯がドバァって出てしまうンデスケドォ!?」
途端に焦りだすあんちゃ。
ニヤニヤしながら横でみている、こが店長。
「ギョォ〜!大幅に抽出時間がオーバーしてもうた〜!どうすればいいんだ〜!」
コーヒーに対して申し訳なさすら湧いてきたあんちゃ。
こらえきれず「ブフッ」と笑いはじめた、こが店長。
初めて自分でドリップしたコーヒーの味は・・・
「塩辛い・・・・・・・」
(なんで???)
一体こが店長と何が違うのか、、、
(いや、何もかも違うんだろうけど、、、)
ガン見してたはずなのに、何もわからなかった・・・
見ているようで、何も見てなかったんだということに気付かされ、軽くショックを受けました。
そんな挙動不審なあんちゃを見かねて、こが店長はいろんなことを教えてくれました。
「みる」といっても、その様子をただ漠然と、表面的に眺めているのは、「みる」とは言わない。
たとえばドリップしているのを「みる」のであれば、
・お湯はどんなタイミングで、どれくらいのスピードで、どんなふうに腕を動かして注ぐのか?
・コーヒーはどういう風に膨らんでいくか?湯気はどんな形をしているか?香りは?色合いは?
・抽出されたときにどんな音を立てている?滴る瞬間にどんな広がりを見せるか?
・淹れるときの姿勢は?からだの角度は?視線は?・・・
などなど、あらゆる細部まで際限なく「みる」ことができる。
自分にない感覚、感性、技術を取り入れていくのであれば、まずは「みる」ことの次元を上げなければならない。
「みる」ことで、プロの感覚をうつす。先人の知恵をインストールする。
昔の料理人は、手取り足取り料理を教えてくれるなんてことはなかったから、必死に洗い場をこなしながら、先輩たちが料理を仕上げていく様子を、「絶対に見逃すまい」と、横目で「みて」全てを覚えた。
これを、本当の意味での「見習い」と言う。
・・・
実はこれは、コーヒーに限らず、人と接するときも全く同じことが言えるのだと教わりました。
たとえ毎日接する身近な人も、表面的に“眺める“ことしかしていなければ、その人の本質は決して理解できない。
その人が何を感じて、どんなことを考えて、どんな思いで日々生きているのか。
それは、深く「みて」いれば、言葉を交わさずとも、その些細な変化に気づくことができるんだと。
あんちゃ「・・・と、いうことは。わたしは、コーヒーのことも、周りの人のことも、表面的な部分しかみていなかったということですね」
こが店長「・・・そういうことになるね(*´ω`*)←満面の笑み」
コーヒーを通して、もっと人と心を通わせられる器を磨こうと誓った日でした。おしまい。
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