学生の頃によく聴いていた若手バンドが、5年10年経って久々に聴いたら、驚くほど洗練されてスタイリッシュな音楽になっていた、ということがよくある。
曲の完成度の高さも、スタイルとしての成熟度も磨きがかかって、本当に愚直に音楽に向き合ってきたんだな、というのが、素人のわたしですらわかるほど。
しかしその一方で、「あのときの、荒削りで無垢だった音はもう聴けないんだな」というある種のさみしさが生まれる。
若さゆえに無知で、無知だからこそ勢いがあって、世間や常識への違和感を剥き出しにして歌うハングリーさがあって、とにかくハンパない熱量が聴く者の心をえぐるような音。
ある意味、世間知らずで未熟だからこそ、味わえる〝音〟があるな、とあとになって気づく。
でも、これはなにも音楽に限った話じゃなく、人生にもそのまま当てはまる。
子どもの頃は、怖いものなんかなくて、何でもかんでもチャレンジしては転んで、また立ち上がって、夢中で目の前のことに向かう、はてしないエネルギーがあった。
過去を悔やむこともなければ、実体のない未来を憂うこともなく、ただただ今を全身全霊で生きることができた。
けれどそんな生き方は、大人になるほど難しくなっていく。
社会生活を続けるほど、他人からの評価や常識を考えて打算的な動きをするようになったり、「あのときこうしていれば・・・」「この先どうなるんだろう・・」と心が過去や未来に囚われるようになったり、「こうあらねば」と、自ら枠組みを作って、その範囲でしか動かなくなったり…
たとえば今これを書いている間、外は雨が降っているのだけれど
子どもの頃は傘をさしててもほとんど意味がないほどバシャバシャと走り回って、ともだちと水たまりを踏んづけながら、全身ずぶ濡れで家に帰っていた。
今となっては、
「濡れるのイヤだから外出るのやめとこう、、」
「あーあ、洗濯物増えるなぁ…」
という思いがまず先に出てきてしまう。(ナマケモノである。)
そういう独り言がでてきたとき、なんだか歯痒い気持ちになる。
日々の生活から〝健全な無謀さ〟が失われ、〝安全圏〟が増えていくようで。
ただ、大人になることで得るものもたくさんある。
知らなかった世界を知り、教養を深め、自分以外の大切なものの存在(大義、使命、他者etc)のために命を燃やす喜びを味わって、人間としての器が成熟していく面白さは、歳を重ねるからこそ見えてくるものなのだろう。
雨の日の、屋根からぽたぽたと水が滴る音を「美しい」と感じたり
空気がすっと引き締まり、透き通っていく心地よさを堪能できるようになったのは、ずいぶん最近のことだ。
若かりし頃には気づきもしなかった、繊細な視点が、大人になって培われていく。
普通の日常を、別の角度からとらえる力が身につく。
それは、大人になる一つの醍醐味とも言える。
・・・何が言いたいのかというと、
いつまでも「子どものような大人」でありたいということ。
人としての器を磨きながらも、初々しさを忘れない。
慎重で繊細な感覚を持ちつつも、大胆で突飛な決断もする。
純粋で混じり気のない子どもっぽさと、清濁併せ呑む大人のたくましさを、同時に持つ。
そういう矛盾を、死ぬまで大事にしたいなと思う。