3年前に「好きなことだけで生きていくぞ〜!」と意気込んで、会社を辞め、ブログで独立しました。
最初は苦戦したものの、なんとか生きていけるようになって、ある時期までは「好きなことで生きていくの最高じゃん!もうやりたくないことは一切やらずに生きてこ!」と思っていました。
きっとこれは多くの人がそう思ってて、そういう生き方こそが最高の幸せだと信じているかもしれません。
ただ、最近そうとも言い切れない部分があるなと気づいたのです。
なぜなら、「自分の人としての器を広げてくれたのは、大体人からの無茶振りか、しんどい仕事だったから」です。
好きなことだけやると、ある程度未来を予想できてしまう
たしかに好きなことばかりに囲まれて生きるのは楽しいし、幸せです。そこは否定しません(笑)
世の中の、好きなことだけを極める人の姿はとてもかっこよく見えるし、それもひとつの潔さです。
ただ、「自分が好きかどうか」をすべての行動基準におくと、ある程度予想される未来しかやってこないのです。
もちろん好きなことを極める過程で予想外のことはたくさん起きると思いますが、大体の道筋とか、「こうやったらこうなるだろう」というイメージはなんとなくついている。
だから、もしかしたら「自分が好きかどうか」だけを基準にして動いていたら、想像もしなかったような場所に行き着く可能性を失っているかもしれないってこともあり得るのです。
好きなことができない人生は不幸なのか?
そしてもし、物理的な状況で好きなことをやれなくなった場合、その人は何もかも失うということにもなりかねません。
たとえば料理が大好きで、とにかく料理だけを極めている人が、もし怪我とかをして両手が使えなくなったとしたら、その人は「好きなことができない人生」を送ることになります。
「好きなことだけで生きていくのが幸せ」だとしたら、好きなことができなくなった人生は不幸なのでしょうか?
料理だけじゃなくブログだって同じです。
もしわたしが「大好きなブログだけで生きていく!それこそが幸せ!」と思っていたら、両手が使えなくなってブログが書けなくなったとしたら、その先ずっと不幸な生き方しかできないのでしょうか?
(今だったら音声入力という手段があるかもしれませんがw)
わたしは、ブログが書けなくなって好きなことができなくなったとしても幸せだと、今は思います。
なぜなら「たとえ好きなことができなくとも、”大切な誰か”の役に立つ瞬間そのものが幸せだ」と感じているからです。
たしかに好きなことができる人生は幸せかもしれません。が、そこだけに価値を置くと、それができなくなったときに「自分の人生には価値がない」と思ってしまう。
だから、好きなこと”だけ”に基準を置くのはある意味諸刃の剣でもあるのです。
人は、頼まれごとで成長する
実業家の中村文昭さんが「頼まれごとは、試されごと」という言葉を使っていて、その通りだなぁと思ったんですが、
わたし自身も、人に無茶振りされたこととか、しんどい頼まれごとによって人間の器が広がったなという経験がいくつもあります。
「こんなんできるわけないじゃん…!」
っていう仕事は、めっちゃ苦しいし、しんどいし、骨が折れます。
でもそういう苦しさの中に、自分の課題が隠れていたり、思いもしなかった気づきがあったり、好きなことだけやっていたら絶対得られなかったであろう喜びが隠れていたりする。
何より全く知らない自分に出会えたりするのです。
好きなことを追求するのももちろん大事なことですが、そこにしか目がいかなくなって「やりたくないことは一切切り捨てる」のは、ちょっと違うかもなと思うんです。
好きかどうか、という感情だけで判断せず、一見しんどそうだな〜と思うことも、「この人のためならやってみようかな」という頼まれごとを一旦引き受けてみることでまた違う世界が見えて、今までにない幸福感を感じるかもしれません。
今もしやりたくない仕事を引き受けているとか、しんどいことばかりやってるな…って人は捉え方を少し変えてみて、
- 「これは試されごとで、自分の器を広げるチャンスなんだ」
- 「この苦しんだ経験が誰かの役に立つかもしれない」
と思ってみると、今のしんどいことにはすべて意味があって、今までの自分では気づけなかったことに気づかせてくれるチャンスになるかもしれません٩( ‘ω’ )و
(ただし自分の心身を犠牲にするような環境下は危険なので気をつけて!)