わたしは生まれ変わったら食用牛になりたい。
わたしが食用牛になったら
わたしは食用牛として生まれて、北海道の豊かな自然のなかで、暮らしたい。
お母さん牛とお父さん牛も、同じ牧場で暮らしたい。
でもきっとお母さん牛もお父さん牛も、そしてわたしも、きっと寿命がくるまえに、人間のために命を捧げることになるだろう。
出荷されるのがいつになるのかは牧場主の人間にしかわからないので、わたしたちは毎日こうして豊かな自然とともに生きられることに、精一杯感謝して過ごしたい。
いつ命を捧げることになっても、悔いのないように。
でもどうせなら死ぬ前に、見たことのない景色をみてみたい。
他の動物たちは、どんな生活をしているのかみてみたい。
海にいる生き物は、どんな生き方をしているのだろう。
海っていうのは、牧場より大きいのか、そこにいる生き物は、何を思って生きているのか。
牛になったら、その牧場から一歩も出られず、その生涯を終えるのはちょっと寂しい気がするので、せっかくなら一度くらいは脱走してみたい。
脱走して、牧場主があわてて追いかけてきて、怒られながらも、「でもお前も外の景色をみたいよな」と同情されて
「ちょっとだけだぞ」と言ってトラックで街中や海岸まで運ばれたい。そのほうがラクだから。
そして街中にいって、焼肉屋のイケメンの店長に出会って恋に落ちたい。
「焼肉屋」があとから自分たちの肉を焼いて食べられる場所だと知って絶望して、それでも店長のことが好きで、自らその焼肉屋に運ばれることを希望したい。
ひとしきり自分の知らない世界をみて、「なんだかんだこの牧場の草の上が一番好きだ」と納得して、命を捧げる日まで、自分をとりまく環境に感謝しながら過ごしたい。
牧場の中で「死ぬのがこわい」と怯えている牛たちには、「一度脱走してみるといいよ」と言って、みんな脱走させたい。
戻ってきたいなら戻ればいいし、脱走した先で好きな場所を見つけたなら、そこで過ごしてほしい。どちらにしろ、命には限りがあるのだから。
「外の世界は危険だ。すぐにつかまって焼かれるぞ!」という牛もいるけど、それはそれでいい。
でもわたしは焼かれる覚悟をしてでも、一度外の世界を見てほしいとは思うけど。
思えばわたしは、自分が望めば食用以外の道もあったかもしれない。
かっこいい革ジャンになったり、革靴になったり。
でもわたしはあの店長に出会って、自ら進んで食べられることを望みたい。
自分から希望して道を選べることは、ただなにも知らずに食用として命をささげるより幸せかもしれない。
「わたしの命は、あなたの手によって裁かれて、あなたが大切に思う人たちにおいしく食べてもらって、そしてその対価はあなたの人生を充実させるものに使ってほしい」
そうやってイケメンの店長を思いながら、最後の日を迎えたい。
この思いを店長に伝えたいけど、伝える頃にはもうわたしは肉のかたまりになっているので、わたしの肉や骨、全細胞にまでこの思いを染み込ませておきたい。
そうすればきっと、店長は自信をもってわたしの肉を、大切な人たちに提供できて、自分の仕事により誇りを持ってくれるだろう。
わたしの命は、店長と店長のまわりの人たちに、笑顔と、充実した人生を送るための一部分になりたいと思う。
わたしはあらゆる命を大切にできているだろうか
ふと、もし自分が牛になったら自分の運命をどう受け入れのか、考えて書いてみました。
きっかけとしては、水野敬也さんの「神様に一番近い動物」という本を読んだこと。
この本には7つの物語が入っていますが、最後の7つめの物語で牛の話がでてきます。
これを読んで、わたしはすごく感銘を受けました。
「わたしが生活できているのはあらゆる命の上に成り立っている」
ということに気づかされました。
当たり前のように食べていた牛丼
処分してしまった牛革のバッグ
傷がついた牛革の靴。
もっと、大切に食事をして、大切にモノを使おう。
昔から散々言われてきた言葉ですが、こんなにも腑に落ちたのは初めてです。
すてきな物語を書いてくれた水野敬也さんに、感謝。
みんなに読んでほしいです。
(キンドル版は11月中はセールで半額くらいになってます)