ネット依存になった私と両親の開業について|「取り柄のない凡人」がコンプレックスだった私の人生ストーリー③

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  1. ピアノの前で泣きじゃくる私と両親の離婚。
  2. リアルで拠り所をなくした私のインターネットとの出会い。

 

 

12歳でインターネットの世界に魅了され、毎日のようにネットの向こう側の人たちとイラストを交換したり、自分のサイトに設置した掲示板で交流するようになった。

 

掲示板で仲良くなった子とは文通をするようになり、手紙に同封された手書きのイラストをいつも楽しみにしていた。

「自分の好きなものを受け入れてくれる人とのつながり」はこんなに自分の心を満たしてくれるのか、と感動した。学校や家では決して味わえない高揚だった。

 

 

その頃はNARUTOや鋼の錬金術師にどっぷりハマっていた頃で、二次創作のイラストサイトが数え切れないほどあった。

時を忘れるほどそういったイラストサイトを巡り、たくさんの人と交流した。

 

本当にこの頃はインターネットと漫画を交互に行き来していた記憶しかない。(漫画も家に300冊くらいあった)

 

 

加えてちょうどこの頃に「BL(ボーイズラブ)」というカテゴリがあることも知り、まんまと腐女子になった。(特にNARUTOのBLにハマり、本屋でも同人誌を買い漁ったほどだった)

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完全にインターネットの世界から抜け出せなくなっていた。現実世界よりも、ネットの世界のほうがアイデンティティを持っていた。もはや依存症だった。

「好きなことに一直線」といえば聞こえはいいが、食べることも寝ることもトイレに行くことも犠牲にするほどのレベルだったので、まさに「寝食忘れて没頭する」ような生活をしていたと、我ながら思う。

 

没頭しているときというのは得てして無心になっているものだ。

ネットに触れているときの自分が何を感じていたのか、どんな思いで毎日向き合っていたのかはほとんど思い出せない。

ただ、そういう時間が増えるほど人生はあとから振り返れば充実感があり、全身全霊で時間を使っていたと思うのだろう。

 

 

 

その頃両親は、一念発起でケーキ屋を立ち上げていた。

父は建築会社の専務から脱サラし、母はもともとパティシエとして活動していたため「自分の店を持つ」という長年の夢を叶えるタイミングだった。

 

店をオープンする1週間前くらいから、両親はほとんど家に帰ってこなくなった。

泊まり込みで開店準備をし、仕込みをしていた。

家から寝袋を2つ持っていって車に積んでいたのが今でもなぜか脳裏に焼き付いている。

 

 

満を持してオープンしてからもありがたいことにお客さんがたくさん来て、一層親は家に帰ってこなかった。

小学生のわたしですら「倒れるんじゃないだろうか…」と心配してしまうほど働いていた。

 

 

いま思えば、両親は自分たちの夢を叶えながら同時に家族4人の生計を支えるというとてつもない覚悟をしていたのだなと感じる。

父は40代半ば、母も40代にさしかかろうとするタイミングで、一筋縄ではいかない人生選択をしたのは本当に尊敬する。

 

自分たちの夢を叶えながら、わたしたち娘二人に不自由させないよう毎日必死に働いていた。

 

当時「お店の開業にどれくらいのお金かかったの?」と気になって聞いたことがあったのだけど、「それは知らなくていい」と返された。

きっとわたしと妹に無用なお金の心配をさせないための気遣いだったのだろうと思う。(あとから聞けば、自己資金開業だったためかなりの負担があったという)

 

 

子どもがいたって、40代になったって、自分たちが生きたい人生を決断してくれた両親の生き方は、今のわたしに計り知れないほどの影響を与えた。

 

 

親が子へ施す最高の教育とは、親自身が最高の人生を送ることではないだろうか。

どんなに大変な道のりでも言い訳せず、自分たちの決断に誇りを持って取り組む姿を見ていれば、子は自然とその背中を追い、自分の人生に誇りを持って決断するだろう。

実際、わたしはいまその通り生きているのだから。

 

 

 

そんなことも今となってはしみじみ感じるのだが、当時はそんな親の心情を一ミリも汲み取ることのできない小娘だったので「親が家にいないから好きなだけネットができる!ラッキー!」くらいにしか思っていなかった。

両親が店の営業で忙しいことはわかっていたので、親が帰ってきたときはなるべくわがままを言わないように…と思いながらずっと無言でパソコンに食いついていた。

たぶん両親も当時わたしがパソコンの前にいた記憶しかないだろう。

 

 

さすがに多忙だった両親も、あまりにわたしがパソコンに張り付くものだったから心配に思ったのだろう、ある日「パソコンを使っていいのは夜の数時間だけ」という衝撃的な命令が下された。

日中はネットの有線LANを没収され、親が帰宅したあとだけネットが許された。

 

 

それは、それはもう悲しくなった。

唯一の心の拠り所であるインターネットが、夜の数時間しかいじれなくなったのだから。

 

依存していたものが一気に取り上げられたら人はどうなるかわかるだろうか?

内心は発狂しそうなほどにそのことしか考えられなくなるのだ。

 

「わたしがネットに触れないあいだにみんなはきっと楽しそうに交流している…」

「わたしだけがその輪に入れない…」

「居場所がなくなる……」

 

いま考えれば日中ネットができないくらいで居場所がなくなるわけないのだが、そんな思考に至らないほどの状態になっていた。

常に不安で、手持ち無沙汰で、ネットのことが気になって仕方なくて、意味もなくPCの前に座っていたこともあった。

 

 

なんとかネットができないかと、家の固定電話の回線を引っこ抜いてネットにつなげたこともあった。

そうしたら意外とネットがつながったので一時の至福を楽しんだが、親が店から家に電話をかけたときにつながらず(わたしが回線を引っこ抜いてたから)、内緒でネットにつないでたのがバレてしこたま怒られた。
(その後PCディスプレイごと没収されたのでいよいよ打つ手はなかった)

 

 

そうした攻防が繰り広げられた末に、わたしはクーデターを起こす気力も徐々になくなり、少しずつインターネットから離れていった。

当時は「両親がわたしの居場所を奪った!」と思って憤慨していたのだけど、きっとわたしの依存具合を本気で心配したのだろう。

 

少し前に母と話しているときに「あのときPCを没収してよかったのかわからない。好きなことを追求させてあげればよかったのかもしれない」と言われたのだけど、あのとき歯止めをかけてくれたのはそれはそれで良かった気もする。

親の抑止があったからこそ現実世界をちゃんと見つめることができたし「はやく自立して好きなだけネットしてやる!」と思うこともできた。

 

あのときのわたしは、現実の問題から目を背けネットの世界に逃げ込んでいたから、それと向き合う時間ができたのは結果オーライだ。

 

 

 

中学生になって、少し間が空いたあと自分で開設したイラストサイトを覗いてみたら、「一定期間更新されなかったためページが削除されました」と出てきた。

何日間もかけてデザインにこだわり、たくさんのイラスト好きの人たちと交流したわたしのサイトは、あっけなく姿を消した。

 

 

そうしてわたしの居場所はまた失われた。

 

 

つづく

 

 

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執筆屋あんちゃ
執筆屋です。意識高い人生哲学から下ネタまで幅広く。 大阪の珈琲屋「シロフクコーヒー」のバリスタ▶︎系列店「ゆにわマートオンライン」に最近異動しました。最近はよくインスタにいます。

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