ときどき、「女」という性別に負けた気分になる

性別というのは手術でもしない限りどうあがいても変えられないもので、誰と何をしてても「性別」という壁は超えられない。

たとえば男性とセックスについて話をしたときなんかは、たまに性的な目で見られることもある。わたしはただ真剣に性の話をしたかっただけなのに。「男と女」という垣根を超えてフラットに話したかったのに。

 

わたしが20代の女性ということで、「20代」という武器と「女性」という武器を持ち合わせていることのメリットはきっと大きい。

ブログで下ネタを書いて、多くの人が読んでくれたのも、きっと「女であるわたし」が書いたからこそ読まれたものであると思う。

そしてまわりの人からは「女が下ネタ書いたら、そりゃウケるよな」と言われてきた。

 

そこで少し、わたしは自分の「女」という性別に負けた気がした。

 

わたしが「女」だから、面白いのだ。

たとえばわたしが男だったら、面白くないかもしれない。

 

女だから注目されて、

女だから「ブス」だの「かわいい」だのと外見のことをとやかく言われ、

女だから性の話をすれば男性から性的な目で見られる。

 

「女なのに下ネタを書くなんて下品だ」とか

「女なんだからもっと慎ましくするべきだ」とか

「女は気楽に自由な働き方ができていいよな」とか

よくわからない「女」の固定観念を押し付けられる。

 

わたしは、「女」だから価値があるのだろうか。

わたしがもし「男」だったら、今わたしが作っているもの・書いているものは価値にはならないのだろうか。

 

わたしがどちらの性別だとしても、ひとりの人間としての同等の価値はないのだろうか。

 

確かに自分の性別を武器として活かすことは良いことだとは思う。

でもどうしても、わたしは「女という性別だから」という理由で何かを賞賛されたり、蔑まれたりするのは少し悔しい。

 

わたしが男だろうと女だろうと、わたしの一人間としての価値は変わらないはずなのだ。そう信じたいのだ。

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執筆屋あんちゃ
執筆屋です。意識高い人生哲学から下ネタまで幅広く。 大阪の珈琲屋「シロフクコーヒー」のバリスタ▶︎系列店「ゆにわマートオンライン」に最近異動しました。最近はよくインスタにいます。

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