日本には「茶道」「華道」「剣道」・・・と〝道〟のつく芸事・伝統文化が多くありますが、
それは、単に技を磨くだけではなく、芸事を通した自分自身の在り方・姿勢を整える重要さを、日本人は知っているからではないか、と思います。
現代的に言えば・・・
たとえばビジネスのノウハウ(術)を得てお金を稼いでも、それを使う人の器がなければ=道がなければ、一時的にうまくいっても、散財してしまったり、我欲のためだけに使ってしまったり、次第に己の身を滅ぼしていくことになります。
どんな場面においても、術や技を制して、己を律するために「道」は必要な要素だということです。
コーヒーを淹れるにしても、文章を書くにしても、〝珈琲道〟〝執筆道〟というものがあるとするならば、
そう捉えた瞬間から、ドリップコーヒーを淹れるという一連の行為が、「作法」となり、「儀式」になる。
コーヒーが、自分を知り、心の状態を整えるきっかけになるわけです。
茶道には、お茶を淹れる一連の所作にはすべて意味があって、音ひとつ発するところに、その人の状態が映るわけですが、これは別のことに置き換えて実践することができます。
たとえばコーヒーを淹れるときに、すべての動きに五感を研ぎ澄ませてドリップしようとすると、驚くほどムダな動きが多かったり、雑念が湧いてきたりして、
普段、コーヒーを見てるようで、全然見ていなかったことに気付かされるのです。
で、これ、人に対しても、同じことをやってるなぁと。
目の前にいる、友人、仲間、家族、恋人・・・の話を聞いているようで、違うこと考えてたり、一緒にいるはずなのに、スマホだけ見てて全く視界に入ってなかったり、
その人と過ごす、その時間は、二度と戻ってこないのに、なんとなくダラっと接してしまったな、って思うことは、多々あります。
それって結局、心のどこかで「また明日も同じ日が待ってる」「また明日もこの人と会うだろう」と思ってしまってるから、心ここに在らずの時間を過ごしちゃうんですよね。
「この人と会えるのは今日が最後かもしれない」
と本気で思っていたら、絶対テキトーな接し方はしないはずだし、それはコーヒーに対しても何に対しても、同じことが言えます。
けれど、毎日の忙しさに埋もれたり、モヤっとすることがあると、そういう意識はつい薄れていってしまうから、
お茶をきっかけにして、
コーヒーをきっかけにして、
意識を「今この瞬間」に戻す。
その積み重ねが、〝道〟になっていくのかなと思います。
小難しいこと書いたけど、要するに、目の前のことにただひたすら夢中で向き合ってたら、過去の後悔も、未来の憂いも無いよね、ということです。
いつでもその状態でいたいものです。
自戒もこめて(´・ω・`)
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