わたしがシロフクコーヒーで珈琲修行をはじめた頃、まだお客さんに提供できるレベルではなかったので
毎日コーヒーを淹れては、店長のこがさんに飲んでもらっていました。
(ちなみにシロフクでは、「来店されたすべてのお客様が、コーヒー1杯で人生が変わる」くらいの基準でやってるので、提供はOKが出たスタッフだけ淹れてます。)
そのとき、こがさんはいつも、特にそのコーヒーに対してコメントすることはありませんでした。
最初は「まずかったかな・・・」「なんでコメントしないんだろう、、」と不安に思っていましたが、
あとからその理由を教えてくれました。
それは、
「(コーヒーに対する感想を)言葉にした瞬間、その言葉に囚われてしまう」
ということです。
たとえばもし、わたしが淹れたコーヒーをこがさんが飲んで
「すごく苦い!飲めない!」
と言ったなら、その瞬間からそのコーヒーは
「すごく苦いコーヒー」として見るようになり、次に淹れるときには
「あまり苦みを出さないコーヒーにしなければ」と、無意識に考えるようになります。
言葉のフィルターを通してコーヒーを淹れるようになったら、目の前にあるコーヒーを純粋な目で見れなくなってしまうわけです。
だからこがさんは、あえて言葉にせずに、
いつもしぐさや雰囲気で、コーヒーを飲んだときの感覚を伝えてくれていました。
(「うんうん」と頷いたり、ちょっと「ん?」と首を傾げたり・・)
もちろん、あまりに淹れ方がおかしかったり、どう考えても分量違うよねってときはハッキリ突っ込んでもらいましたが、
わたしはそれを〝空気感〟で察して、「もっとこの豆は甘みを引き出せたらいいかも」「もっとスッキリした味わいがいいかな」と、試行錯誤しながら、淹れる日々が続きました。
お店に来るお客さんだって、いちいちコーヒー飲んで「これはこういう理由でおいしい」「これはこういう部分が微妙」なんてコメントする人はほとんどいませんから、
お客さんがどう感じているのかは、その人が発する空気感で、汲み取らなければいけないわけです。
(シロフクではそれを、「空気から学べ」と教わってきました。)
*
「大事なことは言葉で伝えろ」というのはよく言われますが、もちろんそれは真実だと思います。
が、
「大切なことは、あえて言葉にしない」という局面も、たしかにあると思います。
人もコーヒーと一緒で、
「あの人は底意地が悪い人だ」と言葉にした瞬間から、その人を「底意地が悪い」というフィルターで見るようになります。
本当は、たまたまそういう一面が見えただけで、別の場面では違う一面があるかもしれないのに、言葉で相手を決めつけると、不思議とそういう見方しかできなくなってしまうものです。
(人はいろんな表情を持つから、一概には「こういう人だ」とは言えないのに、つい一括りにしてしまいますよね。)
コーヒーも、本当にいろんな風味が複雑に絡みあって、その1杯が形成されてますが、「苦い」と一括りにした瞬間、その複雑で豊かな余韻は感じられなくなってしまうのです。
けれども、その豊かな風味を人に伝えるには、どうしても言葉が必要ですから、必死でなんとか説明することも大事です。
だから、本当に大事にすべきことは「言葉という次元を超えた感覚(空気感)」であって、それを具体化して人に伝えるために、言葉というツールを扱うわけですね。
でも、
魂が震えるような、人生が変わるような体験も、「感動した」と言葉にした瞬間、なんだか陳腐に感じてしまうように、
言葉の扱い方によっては、人の思考を縛りつけてしまうものにもなり得るので、どういうときに言葉にして、どういうときに言葉にしないのか、その分別をつけられるようになりたいよね、という話です。
・・・自分で書いてて、小難しい話してんなって思ったので、このへんにします。笑
誰もが発信できるようになった今の時代で、言葉をうまく使いこなす人が成功していく流れになっていると思います。
が、そういうコトバ至上主義の中でこそ、言葉にできない感情や、感覚や、感動というのを大切にできると、目の前の日常に、一層奥ゆきが出てくるんじゃないかなと。
禅問答ならぬ「珈琲問答」のような日々の連続で、大変ありがたい環境に身を置かせてもらっています。笑
それでは。