明治生まれの詩人・金子みすゞの「こだまでしょうか」がCMで鬼のように流れた時期があった。
一度聞くと耳に残って離れない軽快なテンポとは裏腹に、人間の本質を深く見抜いた言葉たちが重く胸に刺さったのを覚えている。
『遊ぼう』っていうと『遊ぼう』っていう。
『ばか』っていうと『ばか』っていう。
『もう遊ばない』っていうと『遊ばない』っていう。
そうして、あとでさみしくなって、
『ごめんね』っていうと『ごめんね』っていう。
こだまでしょうか、いいえ、だれでも
はじめてこれを読んだ中学生くらいのときは、あんまりよく理解できなかった。
「類は友を呼ぶ的な意味なのかな?」なんて思ってたのだけど、最近になってようやくこの詩の伝えたいことが、実感を伴って腑に落ちた。
それは、「自分の課題はすべて目の前の人に現れる」ということだ。
わたしは、人との関わりでいつも壁を作ってしまう。
嫌われたくないという思いが強いのか、良い人を演じていたいのかは自分でもまだわからないけど、「仲良くなったようで根底では深くつながれていない」というような人間関係ばかり作ってきたと思う。
以前、自分が作っているコミュニティのメンバーと集まって話したときに、ハッと気付かされたことがあった。
それは、わたしが本音を話すのをためらえば、目の前にいる相手も本音を言わなくなる、ということだった。
「今これを言うのはちょっと気がひけるからやめとこうかな」と遠慮すれば、目の前の相手も遠慮して話さなくなる。
「踏み入った話をするのは怖いな」と思えば、相手も同じように怖がる。
これこそ、金子みすゞが言わんとしていたことなんじゃないか、と。
自分が抱える不安や、遠慮や、恐れは、すべて目の前の人が鏡となって映し出されているのだ。
ようやくわたしは28年間見て見ぬ振りしてきた自分の課題を直視して、そろそろ逃げるのをやめなきゃいけないと思った。
乗り越えるべき壁は、いつも目の前にあったのだ。
目の前にあるのに、気づかないふりしてずっと逃げてきた。
目の前の人と接しているようで、向き合うことを避けていた。
「わたしは内向的な人間だから」と言ってきたけど、向き合うべき課題から逃げる言い訳として”内向的”をふりかざしてはいけない。
これからは本当の意味で、目の前にいる相手と向き合わなければと思う。
それは同時に、自分の内面とも真剣に向き合うということだから。
人間関係は、つねに「こだま」なんだ。
心から信頼する関係を人と築きたいなら、まず自分からその一歩を踏み出さなければならない。