今回の記事はわたしにとってはものすごく勇気のいるテーマなんだけど、振り絞って書いてみようと思う。
前置きとして書いておきたいのは、この「複数愛」という在り方の正しさを声高に主張したいわけではなく、既存の愛の形を否定するわけでもない。(そもそも対立するものではないと思っている)
ただ、「こういう形もあるんだ」と知ってもらいたいのと、わたしと同じように悩む人が少しでも前に進むきっかけになれば、と思い筆をとっている。
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少し前に、ポリアモリーに関心のある人が集まるイベントに参加させてもらった。
ポリアモリーとは、端的にいえば同時に複数の人と親密な関係を持つこと。
そして当事者全員がそのスタイルに合意していることを言う。
(当事者の誰かがその事実を知らない「浮気」とは、明確に違いを定義している)
ちなみに一対一での恋愛関係は「モノガミー」というらしく、日本では多くの恋愛・結婚スタイルがこのモノガミーに当てはまる。
アメリカでは1960年代からポリアモリーの概念が広がりはじめ、今は各国でも多くの人が認知し始めているという。
わたし自身、過去に色々あり(この辺の話は有料noteで書いてます)つい最近ポリアモリーという考え方に出会った。
「複数の人を同時に好きになるのはいけないこと」
「一生に一人だけを愛するのが、唯一絶対の正義である」
という思い込みを抱え、またそれに苦しめられてきたわたしは、自分以外にも同じ思いを持った人がいたことに衝撃を受けた。と同時に、心の薄暗い部分に一筋の光が差し込んだような気持ちになった。
そこから「どんな人たちが、どんな考えをもってポリアモリーに向き合っているんだろう」と気になりはじめ、自分自身がポリアモリーなのかはわからないけど、もっとこの在り方を理解したい。そう思うようになった。
わたしが参加したイベントには
- ポリアモリー当事者やそのパートナー
- ポリアモリーではないけれど、関心がある人
- ポリアモリーが理解できないから、理解したくて来た人
など年代も職業もまったく違う、本当にいろんな背景を持つ人が集まっていた。
そんな人たちと話す中で見えたのは、真剣で対等なコミュニケーションを目指す新しい愛の形だった。
複数愛者は「浮気者」ではなく、むしろその逆だった
まずひとつ気づいたのが、ポリアモリーとは「浮気」を推奨するものでは決してなく、むしろその真逆の在り方だということ。
しばしば複数愛者は浮気者だ、という文脈で語られることも少なくないけど、ここは明確に違うと確信を持った。
なぜならポリアモリーとは「当事者が全員その関係性に合意していること」が前提だから。
恋人に黙って他の人と親密になるのが浮気だと仮に定義するならば、関わるすべての人に誠実に向き合って、話し合って、納得した結果としてやっと実現するあり方がポリアモリーなのだ。
自分が複数の人を好きになってしまう性質を隠しておくことはつらい。
そして隠して嘘をつくことによって、愛する人をむやみに傷つけることもしたくない。
そういう、相手にも自分の気持ちにも誠実に正直に向き合う人がポリアモリーには圧倒的に多い。
(ただし自分に都合よく「ポリアモリーだ」と名乗って相手を傷つけてしまう人も少なからずいる)
物心がついた頃から「シンデレラ」や「眠れる森の美女」などの物語に触れてきたわたしたちは、無意識のうちに
「一人の素敵なパートナーと一生を添い遂げることこそが唯一本当の愛の形である」
という考えが根付いている、気がする。(もちろんそれが悪いというわけではない)
だからこそ、現時点では「ポリアモリー」という言葉をパッと聞いた時に
- 「同時に複数を好きになるなんて浮気者じゃないか」
- 「1人に愛を注ぐべきところを複数にだなんて不誠実だ」
- 「そんなの本当の愛じゃない」
と思う人がいるのはごく自然だろう。
もちろんわたしもその気持ちはものすごくわかる。
わかるのだけど、わたしはその「本来あるべき(とされている)正しい愛の形」にうまくはまれなかったから、苦しんだのだ。
もちろん最愛の一人とずっと幸せに生きるのは素晴らしいことだし、そうありたいと思うのも十分にわかる。
だけど現実では、必ずしもそのスタイルでは幸せにならない人もいる。
既婚者の3人に1人が離婚を経験し、連日のように浮気だ不倫だのニュースが取り沙汰される今の世の中で、全員が全員「1人だけを愛し、生涯過ごしていく」という枠の中におさまるとは限らないのではないか、とわたしは思うようになった。
「本当の愛=一生に一人だけを愛すること」という常識
「だれかを同時に好きになるなんてありえない。そんなの本当の愛を知らないだけ」
という意見もある。し、その気持ちも理解できる。
だけど、「本当の愛」とは、愛する人の数で定まるものなのだろうか?
ポリアモリーの立場からその言葉を考えてみると
「うどんもそばも好きだなんてありえない!本当にうどんが好きならそばを好きになるはずない!」
「複数の仕事を掛け持ちするなんてありえない!複業なんて本当の仕事の楽しさを知らないだけ」
と言われているような感覚に近いのだ。(この例えが正しいのかわからないけど…)
複数の仕事を掛け持ちしていても、どの仕事も大切なものであり誠心誠意取り組むのと同じように、複数のパートナーがいても、その全員が大切な存在で、優劣をつけるものではない。
(中には優劣をつける人もいるかもしれないけど)
ポリアモリーにおけるひとつの誤解として、
「好きという感情(もしくは愛情)は人数によって分散されるんじゃないの?」
という考えがあるのだけど、個人的にはこれには賛成できない。
「Aさんには60%の愛情、Bさんには40%の愛情を分配する」
のではなく
「AさんにもBさんにも100%の愛情を注ぐ」
というのがわたしの考えだ。(もちろんこれに当てはまらない人もいるとは思う)
たとえば親が2人の子どもを持った時に、どちらか片方だけを優先するのではなく両方とも最大限の愛情をもって接するように、ポリアモリーも関係性をもったパートナーに対しては全員に最大限の愛情を注ぐのではないだろうか、とわたしは思う。
話は少し逸れるけど、そもそも日本で一夫一婦制が取り入れられたのは明治以降で、それ以前は一夫多妻であったり、将軍に妾(正妻ではない妻)がいたり、多様な恋愛や結婚の形があった。(もちろん一夫一婦もあった)
わたしたちが「常識だ」と思っていることは、長い歴史の中のほんの150年ほどの間にできた考え方だったりするのだ。
そのルーツを知っていくと、頭ごなしに「ポリアモリーなんてダメ!」「一夫一婦制はダメ!」と対立しあうのではなく、
「なぜそういう常識になっていったのか?」
「それぞれのスタイルがどういう思想のもとで成り立っているのか?」
と根本から客観的に議論していく必要があると思う。
ポリアモリーは「一人だけを愛する」概念と対立するものではない。
わたし自身、ポリアモリーか?と聞かれたら「たぶんそうですね」と今なら答えると思うが、きっとこの先、一人の相手だけを好きになるタイミングだってあるはずだ。
そういった意味ではポリアモリーとは、既存の「一人だけを愛する」という概念と相容れないものではなく、時と場合によってグラデーションのように移り変わるものなのではないか、とも思う。
だから人によっては「もともと一人の相手だけを愛してきたし、ポリアモリーなんて絶対ありえないと思ってたけど、よくよく考えてみたら自分の中にもそういう気持ちが芽生えたことはあったかもしれない」というケースだってある。
「そういうのは自分には無理」と思う人がいてももちろんいいし、受け入れられなくてもいい。
だけど、こんなふうに恋愛や結婚について向き合う人がいるということも知っておいてほしいと思う。
実際「ポリアモリー」という言葉を都合よく解釈して、好き勝手浮気したり全く誠実ではない付き合い方をしている人も少なからずいる。
だけどそれは「木を見て森を見ず」であって、特定の人がそういう動きをするからといって、ポリアモリー全体がそういうスタイルだと思われるのは違和感がある。
パートナーと何度も話し合って、向き合って、誠実に関係を築いていこうとしている人たちが多くいるのも事実だから。
一人をずっと愛し続けることも素敵だし全く否定しない。
だけど同時に、「複数の人を愛する人たち」がいて、実際にそれを行動に移して幸せに生きている人もいる。
どちらのスタイルもあっていいと思うし、大事なのは当事者が納得のいく形でよりよい関係を築けることなのだ。
この記事を通して、1人の人を愛することも、複数の人を愛することも、どちらも同様に素敵なことであるという認識が少しでも広まってくれたら、わたしにとってはこの上ない喜びである。
関連記事:わたしが「一人の恋人と付き合う」という行為をやめた理由。 (有料note)
【追記】ポリアモリーを理解するにあたり、参考にした本を載せときます。
- 『わたし、恋人が2人います。~ポリアモリー(複数愛)という生き方~』きのコ/著
わたしがポリアモリーを知るきっかけになったきのコさん。実体験ベースの内容にすごく背中を押されました。
- 『ポリアモリー 複数の愛を生きる 』深海菊絵/著
ポリアモリーという概念ができた背景から考察まで、かなり客観的に書かれていて理解しやすいです。