「誰かのために生きてこそ、人生には価値がある」
かの天才物理学者・アインシュタインは言った。
未熟なわたしは、「いやいやそんなん違うっしょ。自分の人生は自分のものなんだから、自分のために生きるのが正解でしょ」と頭の中でその天才の発言を批判した。
だけど、「誰かのために自分の命を使うこと」への一種の羨望みたいなものはずっと心の中に残っていて離れなかった。
そして最近になって、この言葉の価値が理解できるようになった。
「自分の幸せは、誰かを幸せにすることであり、誰かを幸せにすることは、自分の幸せである」
ということがわかってきたのだ。
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「自分のことは自分ですべてやる」
「この世のすべては自己責任」
そういう、ちょっと強すぎる自立心を抱えたわたしは誰かに頼ることが苦手で、何もかも1人でやろうとする節があった(今もだけど)
自分のことは自分でやるから、自分が動いて得た成果もすべて自分のもの。
そんなふうに、どこか「自分さえよければそれでよし」的な思考が頭の片隅にあった。
「自分で稼いだお金を自分のために使って何が悪いの?」
そう思っていた。
ところがそれはあとになって飛んだ傲慢だと気づく。
自分1人で人生のあらゆることをこなせる人なんて、この世にいないのだ。
常に誰かしらの力を借りて、知恵をもらって、愛情を与えてもらって、わたしは動けている。
見えないところでたくさんの人の関わりがあって、それがいまのわたしを生かしているのだ。
そう考えると、「自分さえよければ…」の発想は、今まで与えてもらった人たちを無視してすべて自分の手柄にしようとする行為だ。
たしかに自力で稼いだお金はどう使おうが自身の自由。
だけどもし、その「自力」がたくさんの人に(見えないところで)支えられたうえで得た自力だとしたら、利益を自分だけの手柄にするのはいかがなものか。
少なくともわたしは、そう思った。
「自分さえよければ」という思考の最果ては、「孤独」だと思う。
世の中のすべての人が自分の利益しか考えずに動いたとしたら、極論、他人を蹴落として利益を奪い取ったり、損得勘定でしか繋がれない希薄な人間関係で埋め尽くされてしまう。
そんな世界は、きっと誰もが孤独で、人を信じられない状況になっているだろう。
「自分をまず満たさなきゃ、人に与えられないでしょ」
という思いもたしかにあった。
だけど、自分を満たす過程で「自分さえよければいい」という思考で利益を求めれば、少なからず誰かを傷つけることになるだろうし、信頼もなくなるだろう。
利益を出すということの本質は、誰かの悩みを解決したり、背中を押すものだと思うから。
自分を満たすためにも、他者の幸せを願うという根底の思考が必要なのだ。
だから、自分が得た幸せは、周りの人たちにも配ってみようと思った。
「〇〇さんのおかげだよ」「本当にありがとう」
と小さな一言から始めようと思った。
「誰かの幸せを満たすために動きすぎると、それはそれで自己を犠牲にする」
という意見もあるけれど、自分が本当にお世話になった人や、信頼する人、愛する人の幸せを願うならどんなことだってしたい気もするし、そしてそれは決して自己犠牲ではなく、自分の幸せでもあるんじゃないかな、なんて思う。
「大切な人たちのために全力で動ける人生」なんて、きっとものすごくかっこよくて、幸せだろう。
そんなふうに、自分の幸せと誰かの幸せを切り分けるのではなく「あなたもわたしも一緒に幸せになる」という次元に早く達したいな、と思う。