もしもわたしが明日残り1ヶ月の余命宣告を受けたら。
ひとまず深呼吸するだろう。
実感を得るのにいくばくかの時間を要するだろう。
なぜ、そうなるに至ったのか、悲観的な目で過去を遡るだろう。
そうして自分の運命をはげしく呪い、怒り、喚き散らすだろう。
事実を受け入れる余裕など無く、自分がこうなった原因を他のものに押し付けるだろう。
そして今まで自分がやってこなかったこと
挑戦を諦めたこと
大切な人に伝えられなかったこと
決断を見送ったことを事細かに思い出し、後悔するだろう。
「あの人とまだ仲直りしていない」
「あの子に借りた漫画をまだ返してない」
「なんでもっとあのとき直接感謝を伝えなかったんだろう」
そんな些細な場面を思い出しては、浅はかな自分の生き様に落胆するだろう。
どん底の淵に突き落とされるような一夜を過ごすだろう。
夜が明けて目が覚めたとき、いまだに絶望感は消え失せなくて、ただひたすら虚無を眺めるだろう。
まるで死んだように午前中を過ごしたあと、ふと自分に残された時間が僅かであることをあらためて、意外なほど冷静に、知るだろう。
そしてベッドから飛び起きて、自分が死ぬまでにやらなければならないことは何かをぼんやり考え始めるだろう。
家族にはどうやって伝えようか?
まわりの友人には?
ブログには公表する?
遺書は書くべき?
お金はどうする?
死ぬってなんだろう?
死んだあとどうなるんだろう?
わたしは生きてる間に何か成し遂げられたのか?
誰かの役にたつことができただろうか?
まだできることがあるのでは?
いまのわたしにしか伝えられないことがあるかも?
死ぬまでにやりたいことって?
まずなにから手をつければいい?……
それなりに悔いのない経験をしてきたつもりでも、まだまだやり残したことがあるようで自分の不甲斐なさに泣くだろう。
そうしてまた夜になって
ああ、貴重な命を、かけがえのない時間を悩み事に使ってしまったと頭を抱えるだろう。
そこからまた少し冷静になって、これから1ヶ月でやりたいことをリストアップし始めるだろう。
眠ることさえ惜しみながら書き出すだろう。もしかしたら1ヶ月経たずに死ぬかもしれないのだから。
次の日からはやや前向きな気持ちで朝を迎え、やれることを精一杯やりきって死ぬことを決意するだろう。
驚くほど冷静に死を受け入れ始めていることに自分で驚くだろう。
少しずつ普段の事務的な用事や発信活動をこなし
しばらく会っていなかった親友に片っ端から連絡を取り
家族と食事を共にし
自分と関わるすべての人とモノに感謝するようになるだろう。
おいしいご飯が食べられること
大切な友人に囲まれて笑いあえること
自分の文章を読んでもらえること
誰かにありがとうと言われること
美しい夕暮れを眺められること
道端で転んで膝から血がでること
くしゃみをすること
大好きな人の手の感触を味わえること
その全てが生きているという実感を与えてくれるだろう。
そんな当たり前の日常の光景を、いかに今までおざなりにしてきたかを目の当たりにするだろう。
「明日死んでも後悔しない一日にしろ」
そんな名言もいつしか聞き飽き、耳に入ってこなくなっていたことに気づくだろう。
そしてその瞬間、この言葉の本当の意味を悟るだろう。
死とは、日常の生の延長線上にあり、特別なものでもなんでもないのだということを。
そうしてやっと、わたしにできることは、いつもと変わらぬ日常を、生と死の両方を噛み締めながら淡々と生きることだと知るだろう。
※この記事は死を侮辱するものでは一切無く、ただ純粋にもしわたしに残された命がわずかだとしたらどう生きるのかを想起しながら書いたものである。