わたしは社会人2年目に差しかかる頃に、「人生は、勝手に生まれて強制的に人生を送るゲームだ」と感じた事がありました。
「気づけばこの世界に生まれてて、そこから死ぬまで80年、強制的に人生を生きなきゃいけない」と。
自分のやりたいことがわからず、毎日家と会社を往復して、なんのために働いているのか、働くために生きているのかわからなくなって、生きることになんの意味があるのか見えなくなりました。
というか、この状態を到底「生きてる」とは言えませんでした。
心臓が動いているだけの「死んだ人間」だとすら思っていたのです。
それなのに、テレビも雑誌もインフルエンサーも、「希望を持って生きろ」とみんな言います。
こんな強制参加のクソゲーに希望なんてなくね?って本気で思っていました。
わたしは漫画が好きなんですが、この頃からよくサバイバル漫画を読むようになりました。
必死に「生」と向き合う登場人物たちが全力で生きる事を渇望し、その人生の一瞬一瞬に集中するさまがまぶしかったからかもしれません。
死ぬ勇気がないから、人生飽きたけど生きている。
でもそんな希望のない、いわば人生という名のクソゲーも、何もなければあと60年はゲームオーバーできません。
死ぬ勇気がないから、生きるしかない。そんな感覚。
こんなことを吐露すると「生きたくても生きられない人に失礼だ」という人がでてくるかもしれません。
でも、きっとこの日本には「死にたくても死ねない人」も存在するのだと思います。
死ぬ勇気がないから、なんとなく生きている人。
希望もなく、かといって地獄をみるほどのどん底を味わうこともない、ただ息を吸って吐く人。
そういう人たちに、ただやみくもに「希望をもって生きろ」と正面から向かって言えるでしょうか?
みんな希望を見つけることができるなら、たぶんこの国にうつろな目をして仕事をする人はいないはずです。
飽きたけど、クソゲーなりに楽しむという”希望”
ただわたしはまわりまわって、ひとつの希望となりうるヒントを得ました。
「どうせ強制的に続くこのクソゲーなら、仕方なく生きることを選択するしかできないのなら、クソゲーなりに楽しんだほうがいいのかもしれない」という気づきです。
どうせ生きることしかできないなら、楽しんだほうが得だという貧乏性の私ならではの発想でした。
だったら、意義を見出せずただ家と会社の往復だけをしている生活はもう、いっそ捨ててしまえばいいんじゃないかという結論に至ったのです。
その生活を捨てて、給料が入ってこなくても、わたしはどうせ死ぬ勇気がないから生きるだろう。
そうなればきっと必死で働き、お金を稼ぎ、食にありつく。
そう思ってから実際にわたしは丸2年で会社を退職し、本気で働くこと・お金を稼ぐこと・食べること眠ることに向き合い、独立しました。
数年後どう生きるかではなく、「いまどう生きのびるか」を見つめるようになりました。
かつてまぶしさを感じていたサバイバル漫画の登場人物たちのように、”生”と向き合い「いま生きる事」に全力で集中するようになりました。
たしかに人生は、80年もかかる強制参加のクソゲーかもしれません。
そんな人生に飽き飽きする瞬間だってたくさんあります。
だけど、どんなに飽きたって今日も息を吸って吐いて、飯を食って眠りにつくんです。
だからこそ、わたしはこのクソゲーを、クソゲーなりに楽しんで攻略していきたいと思います。
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